安東次男『古美術の目』、或は祝祭と精神

古美術の目 (ちくま学芸文庫)

古美術の目 (ちくま学芸文庫)

前から読みたかったのだが、気がつくと品切れで、Amazonでも素晴らしい古書値が付いている。やむなく図書館で借りたのだが、斯様な良書を品切れにする筑摩も経営が(再び?三度?)傾いているのか。蕉風連句の評釈において解釈と云うものの恐るべき深みを垣間見せた安東だけに、骨董にも期待していたのだが、その抜群の安定感は期待以上だった。


骨董が云々というと、戦後世代にとっては小林秀雄(か青山次郎)が中心になると思う(骨董がらみの文章は僅かしかないとしても、だ)。思うが、彼が語るのは骨董そのものではない。物や来歴、技術、等々は表徴であって、それらによって余りにも苛烈な自らの精神を自己構成し、同時に反対側に他なる精神を現実である様な仕方で架構する。骨董は、美であり、純粋に物であり、歴史であり、欲望であり、商品であり、およそ最も物らしいものであったが故に、彼らの心を捉えたのではあろう。しかしそれすら彼らには踏み台に過ぎず、精神と精神の邂逅こそがあらゆる物を貫通して直視されている。
とはいえ、そのような精神の形態というのは、実は向こう三軒両隣の我々がそうであるのと根本的には同形なのだ。ただ、我々の殆どはそれを生きることしか出来無いが、彼らはそれを語ることが出来た。出来たが故に、小林はあれほど人口に膾炙したのだと思う(我々は常に、代わりに語ってくれる者を求めているのだ)。
或いは、そのような精神を自ら語ることこそ、正しく「詠う」と呼ぶべきかも知れないが。


無論、安東次男が全く違う精神の持ち主だ、と云うつもりはない。彼が小林に劣るとも思わない。思わないが、目の前に現れている器物を精緻に描写し、膨大な知識と経験から技法と年代と制作の環境を推論し、伝統的な規範の中での位置づけと自らの好みを峻別しつつそれらを己れの生活の中に位置づけて文を仕上げるスタイルは、語りの別なる意義というものを考えさせる。
精神と精神の直接的な邂逅は、祝祭である。小林の生活を辿ってみると直ぐに分かることだが、彼は文のみならず生全体に於て、飽くなき祝祭に生涯を費やした。それはintra festumそのものと言って良い、根源的な時間=存在様態である。あるが、仮にも文明という時間に生きている以上、永続的な祝祭はたちまち様式化し弛緩していかざるを得ない。彼がそうならなかったのは、正しく彼の狂気の所為であろう。狂気をして、我々の詰まらない正気が秘めている様態を客観的のものとして著したが故に、彼は我々の英雄なのである。
しかし、英雄はそのように根底的な仕方で我々を規定するが、我々の規範とはならない。祝祭の只中に留まり続けることができず、祝祭の予兆や予後を生きることも生活の抑圧に帰着せざるを得ないとすれば、どのような時間=存在様態こそ、我々の規範としての文明に相応しいと言えるだろうか。


安東が取り上げるのは、断片や直し、歪みやヒッツキのある小品ばかりである。彼の予算では、という以上にそれが好みであるらしい。無論、無疵で美しく、使い勝手の良い物が最上だろうが、そんなものは現実には手に入らない。

「…さて探してみると一二合の徳利というのはこれはないものだ。程々の酒好で焼物も好な人なら、見て良し話に良し遣って良しという徳利が殆ど画餅にひとしい、ということは胸にしまって何くわぬ顔をしている」

このような、至高の器物なぞ在りはしないし、あっても手には入るまいという諦念に近いものが随所に現れる。安宅英一のような人物はこんな諦念とは無縁だったろうし(現に至高とも言うべき粉青粉引の徳利を持っていた)、小林はそれを跳び越えた先のことしか語らなかった。だが、このような諦念でもって区切られた器物を、精神を精緻に研ぎ澄ませながら折に触れて遣ったり触ったりすることもにまた、驚くべき奥行きがあるものだったりする。
見込みに大きなくっつきのある古瀬戸の盃を(戦後暫くのことだろうが)三千円で買って帰り、取り敢えず遣ってみようと酒を注いだら肌が化けた話は是非読んでみて頂きたい美しい一文だが、そこで安東は以下の様に述懐する。

「どこに転がって待受けているかわからない物の心を、つかむということは、いつになってもやはりむつかしいものらしい…(中略)…過去の経験でどんなに熟知しているつもりでも、一行為の外にある物は一切が未知、そこにのみ生の可能性はあると考えるしかないのだろう。そういう一行為、一判断に付随して、必や内在しているはずの危機感についての認識が欠けているから、われわれは、たわいもなく物を見せたり見せられたり、売ったり買ったりしているのだが、所詮は虚像である、わかったつもりになっているだけのことだ。」

我々には祝祭は見えない。見えないが、その中で生きている。この無知こそが、de festumとでも言うべき遣り方で我々を文明の只中で祝祭へ結び付ける。そして、無知の自覚に至るには知と経験を何処までも極め続けなければならない。逆にそのような生活を可能にするものこそ文明の名に相応しいのであって、従って亦文明に最終的な結論を求める者は文明人ではないということになる。そういう訳で、そもそも人の方が缼けているのだから、物が缼けていても別段問題はないことになるし、直しということの機微もその二つの缼けの間に見えてくる。器形を整えるだけの継ぎは直しとは呼べないのである。


安東次男のような、鋭利と精緻が生活と一体化している文と姿勢は、新しい規範になるわけでも誰を救う訳でもない。唯愚者の指針にして慰めとなるのみであるが、日本という一つの文明を生きる喜びではあるだろう。遅くとも古事記万葉集を以て永遠の祝祭は終わっているのだから。