古代の銅像について・I

ローマで見た銅像が、何かを書かせようとするのだが、何を書けばいいのか、皆目見当がつかずに日を過ごしている。

ローマ国立博物館マッシモ館(Museo Nazionale Romano, Palazzo Massimo alle Terme: 通常マッシモ宮)に展示されている拳闘士は、2000年を経ても失われなかった圧倒的な完成度を備えている。クイリナーレの丘から発掘されたこの青銅像は、個人の邸宅に飾られていた可能性が高いという。ここから、何とか書き始めることにしたい。

記述に於いては、もっと言えば表現に於いては、トートロジーは避けねばならない(先に言ってしまうと、物語はそうではない)。しかし、この拳闘士像はその精緻な技術、写実、構成において、拳闘士でしかない。拳闘士を表現しているのですらない。


表現すること、expressionということと彫刻とを切り離すことはできない、少なくともギベルティ以降は。ブロンズは表現するための質料である。ロダンの作品の、泥から捏ね上げたような柔らかい造形は、中に潜むものを表現(ex-press)するためならば、どんな姿形であっても構わないと語っている。だが、しかし……それは何故か現に生きているもののfigureでなくてはならなかったのだ、ロダンの時代には。
そしてこの「だが、しかし」が消え失せれば、ジャコメッティが現れることになる。


figureは、何かを表現しなければならないのだろうか?人が作るのに、表現でない仕方はないのだろうか?


ロダンはドナテッロやミケランジェロに衝撃を受け、そこから「青銅時代」が生まれる。だが、ミケランジェロの晩年の作品は、ほぼ未完である。フィレンツェのバルジェッロ国立博物館に展示されているものは、最早ダビデなのかアポロなのかすら分からない。

本当に、システィーナ礼拝堂を描くために絵の具が目に入って視力が衰えた為なのだろうか?ミケランジェロ以外に天井画を描いた画家達も同様の症状に襲われたのだろうか?大体、フレスコ画でそんなに絵の具が垂れるだろうか?
未完は、身体的に必然的であったとしても、同時に論理的にも必然ではなかったか。表現として姿形を仕上げてしまうこと、それが完璧であればあるほど、人間を表現として表現してしまうことになる。既に、ずっと前から、人間は内面を持っていたから、それは一つの人間存在に対する解釈として成り立つ。


だが、テルメの拳闘士を前にすると、人間を表現として理解することの皮相さを思い知らされる。この彫像は瞳が失われているので余計にそうなのかも知れないが、ただ拳闘士として其処に座っている。其処には或る種の物語はあるが、表現はない。
同じくマッシモ宮の−−こちらは大理石だが−−「傷ついたニオベの娘」は、背中に矢を受けて仰け反っている。

そして正に、そうなっている。近代的な意味での何らの表現もありはしない。


言い方を変えよう、人間にとって、人間並びに自然界の諸事物は、表現として其処に訪れる/あるだろうか。仮にそうだとしたら、全てはオンラインに回収できるだろう。少なくとも、古典古代の人びとにとってはそうではなかったのは確かである。
人間は人間であり(そして奴隷は奴隷だった)、草花は草花だった。それを大理石で、或いは青銅で作り出した。だから時にそれらが実物になる物語が生まれた。我々がそれを解釈しようとすれば、「ありのまま/それ自体」ということになる。この態度が言葉の観点から一種独特な仕方で練り上げられたのが、プラトンイデア/エイドスに関する言説である。しかし言葉によるイデアを持ち出さなくても、作品は常にそれとしてあった。拳闘士は今も戦いを終えて座っている。


ミケランジェロは、ローマで古代彫刻を見ただろう。自分が表現するものが、表現してしまうことによって、人間の人間としてある単純な重要さを損なってしまうこと、つまり古典作品には絶対に太刀打ちできないことを理解しなかったか。
だが、既に積み上がってしまった彼の重苦しい人生は、最早彼を表現すべき内容から解放しなかった。彼の選択肢は、未完をして完成とすること、表現を未然形に押しとどめることで何とか破綻を−−それは今なお続いている破綻だ−−回避することだったのではないか。彼の未完作に現れている苦悩−−実に近代的な苦悩−−は、究極的に抽象的であって、恐らくゴヤなぞ遠く及ばぬものであったろう。


表現がない、従って写実も抽象もない(テルメの拳闘士にだって、生きている人間の肢体としては奇妙でもあるのである)。模様と描写は分けられていない。その圧倒的な静けさは、単に長い時を経てきたというだけではなく、ex-pressionという圧搾による不安定さがないからではなかったか。それは過去の或る姿形としてある、或いは自ら物語る。物語るとは、言葉でもってあらしめることであり、表現とはまた別の営みである。