CONFESSIONES --アウグスティヌスからの光景--

アウグスティヌスが語り掛ける神とは、脱身体化された絶対権力者、つまり自然物への科学的巧緻をも極めた絶対統治主体そのものである(その機械的欲望を暴いたのがドゥルーズということだろうか)。現身の皇帝は即位するにも服従するにも値せず、その制度そのものが失われかけていた時代、絶対権力を現実の根源=彼方へと押し込めることで生き延びさせ、現実を否定することで社会の崩壊に先んじて現実を清算した。

彼の信仰においては、現実は神という不可視の権力と結びついていないと無価値であり忌むべきものである。そして悪は神から生じない。それは文明なしに文明に依って生存したいという核シェルター的無気力とどう違うのか。

現実の醜悪さを否定するのは自由だ。それは権利というだけではなく、自由の本質だ。だが、文明を維持するためには現実の醜悪さを否定するのではなく対峙し制御する生身の営みが、不純かつ地道な、しかし経験的で合理的な営為が必要である。それを否定するならば、野蛮に呑まれて終わる。ヨーロッパはつまり、文明を投げ捨てた末の野蛮という、最も悪しき処から出発している。
そしてこれ以来、ヨーロッパ人は何でも脱身体化=超越化させてきた。「コレハ真ニ私ノ身体デアル」、真の身体は身体ではないものであり、真の現実も現実ではないものである。それは他と比較しようもない位に狂っている、そして他の文明もまた。

だが、あの傲然たるヨーロッパの個人の根底にあるのが、この弱々しく依存的なアフリカ系ローマ人の心性であると考えることは、非欧州人として微笑を禁じ得ない。このすれっからしの私にも何時の日か回心が訪れる可能性はあるとしても。

契約、制度、未来

年金だとか、そういうことを考えるのは嫌いなのだが、違和感を記録して解放されるために。


公的年金は、契約に基づくものではない。それは制度であり、従って統治に基づいており、統治の都合でどうにでも変わってしまうものだ。制度を信用するのは自由だ、信用が裏切られたと怒るのも自由だ。だが、その信用は一方的なものであって、統治する側は信用を利用するために信用に応えることはあっても、信用を常に履行する義務がある訳ではない。法は、現時点では常に正しいが、現時点の法が未来に於いて正しいことは保証されない。そのような硬直した国家は早晩危機に陥るだろう。


近代国家成立以降、社会契約説は漠然と正しいものと扱われている。だが実際には、国家と統治が契約から産まれたことはないし、契約によって統治が成立している訳でもない。統治の根幹は信用と強制力であって、一方通行の作用に依存しており、契約のような相互性の基盤無しに存立している。従って、もしも確実な年金が必要であれば……契約によるしかない、つまり金融機関と年金の契約を結ぶことになる。だが、契約相手が完全に契約を履行するかどうかは、遂に誰も保証し得ない。


時間は過去から未来へ飴棒のように伸びている訳ではない以上、何十年も先に、更にそこから何十年間も、現在決まっている額だけ年金が支払われることを前提に生きていること自体が、明らかに偏執狂的である。国家は政治家や官僚の私物であってはならない、だが同時に国民の貯金箱でもあってはならない。人間、働けなくなり、資産が無くなれば生きていけない、それだけのことである。現行憲法に基づく国家の恩恵を期待するのは自由だが、守株待兔の類であろう。

古代の銅像について・I

ローマで見た銅像が、何かを書かせようとするのだが、何を書けばいいのか、皆目見当がつかずに日を過ごしている。

ローマ国立博物館マッシモ館(Museo Nazionale Romano, Palazzo Massimo alle Terme: 通常マッシモ宮)に展示されている拳闘士は、2000年を経ても失われなかった圧倒的な完成度を備えている。クイリナーレの丘から発掘されたこの青銅像は、個人の邸宅に飾られていた可能性が高いという。ここから、何とか書き始めることにしたい。

記述に於いては、もっと言えば表現に於いては、トートロジーは避けねばならない(先に言ってしまうと、物語はそうではない)。しかし、この拳闘士像はその精緻な技術、写実、構成において、拳闘士でしかない。拳闘士を表現しているのですらない。


表現すること、expressionということと彫刻とを切り離すことはできない、少なくともギベルティ以降は。ブロンズは表現するための質料である。ロダンの作品の、泥から捏ね上げたような柔らかい造形は、中に潜むものを表現(ex-press)するためならば、どんな姿形であっても構わないと語っている。だが、しかし……それは何故か現に生きているもののfigureでなくてはならなかったのだ、ロダンの時代には。
そしてこの「だが、しかし」が消え失せれば、ジャコメッティが現れることになる。


figureは、何かを表現しなければならないのだろうか?人が作るのに、表現でない仕方はないのだろうか?


ロダンはドナテッロやミケランジェロに衝撃を受け、そこから「青銅時代」が生まれる。だが、ミケランジェロの晩年の作品は、ほぼ未完である。フィレンツェのバルジェッロ国立博物館に展示されているものは、最早ダビデなのかアポロなのかすら分からない。

本当に、システィーナ礼拝堂を描くために絵の具が目に入って視力が衰えた為なのだろうか?ミケランジェロ以外に天井画を描いた画家達も同様の症状に襲われたのだろうか?大体、フレスコ画でそんなに絵の具が垂れるだろうか?
未完は、身体的に必然的であったとしても、同時に論理的にも必然ではなかったか。表現として姿形を仕上げてしまうこと、それが完璧であればあるほど、人間を表現として表現してしまうことになる。既に、ずっと前から、人間は内面を持っていたから、それは一つの人間存在に対する解釈として成り立つ。


だが、テルメの拳闘士を前にすると、人間を表現として理解することの皮相さを思い知らされる。この彫像は瞳が失われているので余計にそうなのかも知れないが、ただ拳闘士として其処に座っている。其処には或る種の物語はあるが、表現はない。
同じくマッシモ宮の−−こちらは大理石だが−−「傷ついたニオベの娘」は、背中に矢を受けて仰け反っている。

そして正に、そうなっている。近代的な意味での何らの表現もありはしない。


言い方を変えよう、人間にとって、人間並びに自然界の諸事物は、表現として其処に訪れる/あるだろうか。仮にそうだとしたら、全てはオンラインに回収できるだろう。少なくとも、古典古代の人びとにとってはそうではなかったのは確かである。
人間は人間であり(そして奴隷は奴隷だった)、草花は草花だった。それを大理石で、或いは青銅で作り出した。だから時にそれらが実物になる物語が生まれた。我々がそれを解釈しようとすれば、「ありのまま/それ自体」ということになる。この態度が言葉の観点から一種独特な仕方で練り上げられたのが、プラトンイデア/エイドスに関する言説である。しかし言葉によるイデアを持ち出さなくても、作品は常にそれとしてあった。拳闘士は今も戦いを終えて座っている。


ミケランジェロは、ローマで古代彫刻を見ただろう。自分が表現するものが、表現してしまうことによって、人間の人間としてある単純な重要さを損なってしまうこと、つまり古典作品には絶対に太刀打ちできないことを理解しなかったか。
だが、既に積み上がってしまった彼の重苦しい人生は、最早彼を表現すべき内容から解放しなかった。彼の選択肢は、未完をして完成とすること、表現を未然形に押しとどめることで何とか破綻を−−それは今なお続いている破綻だ−−回避することだったのではないか。彼の未完作に現れている苦悩−−実に近代的な苦悩−−は、究極的に抽象的であって、恐らくゴヤなぞ遠く及ばぬものであったろう。


表現がない、従って写実も抽象もない(テルメの拳闘士にだって、生きている人間の肢体としては奇妙でもあるのである)。模様と描写は分けられていない。その圧倒的な静けさは、単に長い時を経てきたというだけではなく、ex-pressionという圧搾による不安定さがないからではなかったか。それは過去の或る姿形としてある、或いは自ら物語る。物語るとは、言葉でもってあらしめることであり、表現とはまた別の営みである。

ソクラテスからへーゲルへ、或いは哲学と秩序=権力を和解させる為の長い道程

  • イデオロギー批判として、ソクラテスプラトンアリストテレスも簡単にぶち抜いている。
  • 哲学史とは、言語=意味空間の秩序=権力を粉砕する問いの破壊力を、如何にして当の破壊するものの防御に利用するかという営みに他ならぬのではないか。
  • つまり、意味秩序自体に問いの構造を持たせること、ディアレクティケーとしての弁証法による体系こそ、その帰着点であり、従ってハイデガーの言う通り、ヘーゲルこそ哲学の完成=終焉者である。
  • 今日のこの複雑で高度な社会は、秩序の中に問いを組み込むという哲学の挑戦無しには、或いは成立しなかったかも知れない。
  • つまり、ウィトゲンシュタインこそソクラテスに似ている。
  • 天の邪鬼としての、流れから離れる者としての、海から淡水へ、そして陸上、天空へと離れゆく、回帰しつつそうである知としての。

森山大道と桑山忠明@国立国際美術館

  • 写真のtechnology orientedなところによって、写真は時間性、時代性の中にある。そして、写す限りにおいて意味し、意味され続ける。容易に無限に撮影することができる以上、写真は視点の問題でしかなく、従って生活を最早超えられないのである。森山大道が写したいものが遂に世界中の「大阪」であれ何であれ、写真はもう死んだ。名前と物語だけが生きている。
    • とは言え、死ぬとは普遍的になることである。技芸ではなく、学に基づく技術によって、抽象化された欲望であるところの死として、遍在する。それを個別的な技芸へともたらすことは、技術によっては、技術を根拠としては、最早できないだけのことである。
  • 空間を広げ、占めること。意味によってでなく支配すること。専制ではないが民主制でもない、或るアルケー。人間は見ることを欲するが、それを意味を欲することとすり替えることで経済が、更に言えば文化と自己が生じる。色彩から、意味でない方へ。つまりそれは空間へ。桑山忠明という名前が複数の歩みとなる仕方で/場所で。
  • 或いは杉本博司の様に、写真を擬装しながら、写真でない空間を拓くこと。意味を擬装しつつ意味でない広がりを保つこと、つまり、生存すること。

...dans la logique du sens.

愛宕、陽物、灯篭


私は別に、史実的ないしは民俗的の話をしようというのではない、単にお伽噺、或いは父祖の言い方に倣えば話の話に過ぎない。歴史は常に色々の事情を考慮せねばならないから。


愛宕さんの灯篭は山城、丹波辺にはどこの街道筋にも見られるものである。そして、それらとは別に鳥居本から山頂まで一町ごとに道標が立っている。


この道標は見ての通り、陽物を形象している。古く、環状列石に遡るフェティシズムの裔がこのように道中に起立しているのは、また古代ギリシアヘルメス像を思い起こさせる。
更に、陽物が通常は陰茎と称され、陰と陽という二元原理を表象すると共に通り過ぎてしまっているところに、性というものの根深さと曖昧さを感じないではない。


ともあれ、今日道標はお地蔵さんと並んで山道に立っている。道は常にその横を通り過ぎていくだけだが、その陽物の石造形象を通ってゆく語りの道もまたあるように思われる。

この道標から灯篭を振り返る。すると愛宕灯篭の特徴的な形象は、道標の頭頂部を別の石で仕立てて屋根とし、本体の上部をくり貫いて灯火を灯せるようにしたものであると知れる。この知はしかし史実的な知ではない、が史実もまた記号と論理による抑圧の一つであって、他の抑圧も、非歴史的な抑圧もないではない。

山頂には数多くの灯篭が並んでいる。享保から宝永のころのもので、彫り込まれた文字の優美さは、今日の自動書記装置の遠く及ばないところである。


愛宕の大神は火の神であるが故に、灯篭との親和性は高い。炎、灯火、それは古来より法つまりDharmaすなわち法灯、そして精神(Ruah, pneuma, spiritus, Geist)を指し示してきた。
岐立する炎としての石と、燃え上がる陽物としての精−神。ここで思考は、精神のsexualityという何とも思考し難いものに直面する。だが、この「の」は、或る代補、根源のサプリメントであって、世界と身体とイメージに引かれた軸、補助線である。
灯火=精−神は揺らめきの中から視線を放つ。ファロスからその視線へ引かれた補助線、代補はしかし気付かれず、それ自体としては殆ど知へと訪れない。それは大抵の類型に於て、知もまたその補助線、石と火焔と陽物の代補の先から放たれているからではなかろうか。
しかしながら、補助線は無限へと伸びている訳ではない。精−神は反復する、常に既に繰り返され、自己自身へと関係する。それは常に単一であり殖えない、山が殖えない様に。殖える時、補助線は途切れ、代補は消費し尽くされ枯渇する。
従って、岐立する炎としての精−神は、保持される為に失われる為の憧憬であり、もっと未来の言葉を使えば、一つの最初の犠牲、吹き消されるために照らすものである。その昼と夜。

デリダ『精神について −ハイデッガーと問い−』

死が誕生より以前に、「より後」が「より前」以前にやって来るということを聴き取るためには、まさしく、時間のより根源的な本質に接近しなければならない。少なくともアリストテレス以来、われわれの表象を支配しているあの時間解釈「以前に」立ち帰らなければならない。

(それはつまり、形而上学以前に、従って形而上学の後に赴くということであるか?)

話を戻そう。動物は世界を、したがって精神的世界を持っておらず、動物は精神に与っていないとしても、この世界を−持たぬことは、石のそれとは根底的に違う意味を持つ。石の方は無世界的に在り、だからこそ世界を奪われようがない。動物も、世界を奪われているから世界を持っていない。しかしこの剥奪は動物の持たぬことが、持っていることの一様式であって、一つの−世界を−持っていることへのある一定の関係でさえある、ということを意味する。動物に対してと石に対してでは、世界なしの「なし」は同じ意味ではないし、同じ否定性の謂いでもない。一方の場合には剥奪であり、もう一方の場合には純然たる不在である。動物は、持っていないという様式においてある世界を持っているのだ。逆に言えば、一つの世界を持ち得るから世界を奪われているのである。ハイデッガーは、持ち得ることにおける持たぬことという形式としての「貧困(あるいは欠乏)」について語っている。確かにこの能力、この威力またはこの潜勢力は、アリストテレスのdynamisの意味は持っていない。telos(目的)によって方向づけられた潜在性ではない。しかし、この図式が回帰してくるのを、どうやって回避したらよいのだろうか?・・・二つの命題(動物は世界を持っており、かつ持っていない)の間の矛盾が意味するのは単に、われわれが未だ世界概念を十分に解明していないということではなかろうか・・・

(石は世界を持たないのは、持つ必要がないからで、存在をも貫く所有のドグマを離れているというだけのことではないか)

我々は、外見上は言語の三角形、ギリシア語(pneuma)、ラテン語(spiritus)、ドイツ語(Geist)を手にしている。ハイデッガーは、ギリシア語やラテン語に刷り込まれた巨大な意味系を失効させる訳ではない。彼はただ、それらが根源性において劣ると言うに過ぎない。しかし、彼がドイツ語に負託するこの根源性の代補が意味をもち、言い表されうるのは、言語的−歴史的な三角形の、あるいはトリアーデの内部でだけであり、また、ヨーロッパのものでありながら、通常の表象の中にある西洋ヨーロッパの彼方あるいは手前に、上のように解釈されたGeistによって達しもする「物」pneuma-spiritus-Geistの一種の意味の歴史に信を置く場合にだけである。

…(中略)…

 もしその歴史上の三角形が正当性をもって閉じることができるのであれば、私は上の返答の非常に強力な「論理」を議論にかけたりはすまい。ところがこの三角形は、粗暴な排除によってしか閉じることはないと思われるのだ。…(中略)…この三角形は起源からして、かつその構造自体において<聖書>のギリシア語次いでラテン語がpneumaとspiritusで翻訳しなければならなかったもの、すなわちヘブライ語のruah[気息]へと開いたままなのではないか?

デリダの真骨頂)

動物には、自らの生の利害を越えて本来的に問うことができないのだとすれば、現存在は一体、本来的にかつ全く厳格な意味で問うことができるのか?問いは、探索と追跡とを、確かに最も重層決定性の高い諸様式によってではあれ、(差異かつ差異の差延において)違える=遅らせることしかしないと、そうして生の利害を迂回させるに過ぎないと、また変質も、最も不連続性の強い変異も同じように迂回にとどまると証明できるのではないか?唯一そのものとしての死への存在だけが、その生へと根づいている問いを一時停止し、問いを解放するのだと思われるかも知れない。そして多分、ハイデッガーならそう言うであろう。彼は後年、動物は「死としての死」を経験することができないと強調することになる。だからこそ、動物は話すことができないのだ、と。しかし現存在だとて、たとえ予見によるにせよ、そのものとしての死を経験しているのであろうか?〔そもそも〕それは何を意味するのか?死への存在とは何なのか?本質的な形では決して一生物とは定義されない現存在にとって死とは何なのか?ここで問題は、死を生に対立させることではなく、ある言説において、つまりそれにとっては死への関係が、死の経験が生物の生に無関係なものであり続ける言説において、死にいかなる意味系を与えうるのか、と問うことである。

(動物が本来的に問うことができないのは、つまり、本来的に知ってしまっているからであろう。)


精神について 新版 - ハイデッガーと問い (平凡社ライブラリー)

精神について 新版 - ハイデッガーと問い (平凡社ライブラリー)