2010-01-01から1年間の記事一覧

天地分かれし時:南アルプス南部縦走 day1

畑薙大吊橋(13:43)=>ヤレヤレ峠(14:10)=>ウソッコ沢小屋(14:53)=>横窪小屋(16:10) 南アルプスは何処か遠いところにあった。それは彼方に聳えている峰々だった、記憶の中で、伊那の谷の向こうで。東海道新幹線は遠駿を貫いて走っているが、その北方は山並みが…

或る休日

梅雨明け前の休日に、リーガロイヤルでゆらゆらと時を過ごす。身分違いかも知れないが、年に一度ほど、こういうこともある。ここのクリームブリュレは絶品だと思うのだが、別に有名ではない。まあ、世の中には美味なるものが満ちあふれているのかも知れぬ。…

身体、イメージ、顔

人体は確かに関節でのみ屈曲する剛性体と言えないこともない。だが、そのような構造を動かすように自分の身体を動かしてはいないのも確かである(機械か他人の身体を動かすのと同じ様なことになるだろう)。 自分としての自分の身体は寧ろイメージに沿って、…

祇王寺

緑の雲海に点々と陽が差す 蒸し暑い大気が 猫の 瞳から湧く泉に冷やされる 苔の起伏の間を 魂だった物が流れ続ける 或いはもののふ 苔の一房一房は小宇宙であり 杉の如来と諸尊が 垂直に突き刺さる三千世界 それは遙かな未来 そして今 お前は目覚めている猫…

およそ

思索とは間違うものである。と言うよりは寧ろ、如何に本質的に間違うかということこそ、思想にとって最も重要なことであろう。

twittered aphorism

善や悪は最も抽象的なものに属している、それらが多少なりとも具体的であったら、ここ数千年の善悪を巡る我々の混乱は無かっただろう。 独我論は無意味だ、何故なら人間は、主体は常に孤独だから。孤独が錯誤であるとしても、それは根源的な錯誤であって、そ…

刻印としての価値と貨幣としての芸術

自同化された価値は既に貨幣的であり、現象としては貨幣と呼べる。非自律的な、時間発出的な価値は、貨幣の手前か向こうにしかない。欲望は価値による刻印が無ければ成立しない。だが、欲望の恐るべき点は、そもそも成立していなくてもよいという点にあるの…

新年烈々 八ヶ岳赤岳(地蔵尾根〜文三郎尾根)

2010/01/01 赤岳山荘 10:55=>赤岳鉱泉 12:36(小屋泊)2010/01/02 赤岳鉱泉 07:49=>行者小屋 08:23=(地蔵尾根)=>赤岳天望荘 09:54=>赤岳 11:19=(文三郎尾根)=>行者小屋 12:35=>赤岳山荘 14:19 所属している山の会の人から正月に八ヶ岳は如何とのお誘いがあり…