冬の舳先(part2)

次の日、特に予定というものはなかった。少しゆっくり目に起きて、会社が始まる頃にチェックアウト。
頭上は板東の蒼空。この突き抜けるような、と言うよりは寧ろ突き放されるような青。私にとってはその空の下で暮らした日々以来、エデンの東を顕す様に感じられる。ともかく、この青空がビルの隙間に食い込んで無限遠で包囲している感覚こそ、私にとっての東京である。
靖国通りに出て、神保町まで歩く。私の知っている限りでは、神保町辺りの靖国通りが東京で一番歩き易い感じがする。理由は良く分からないが、通りに面した建物の高さ:通りの幅:歩道の幅、という比がその通りの印象を決めていて、建物が8階以下で、道幅と歩道の広いこの通りが安定した印象を与えているからだろうか。逆に住宅街でも歩道が一人分もないようなところは狭苦しいのは当たり前である。
神保町界隈は言わずと知れた古書店と登山用品の聖地だが、今日はあちこち動き回るので全て素通り。営団(東京メトロなんて認めません!)半蔵門線東急田園都市線二子玉川へ。しかし、二子玉川駅の直前でようやく地上に出たと思ったら地表を埋め尽くす建物を見晴らせるので、どこがどう田園都市なのか(多摩川周辺は緑も残っているようだが・・・)。東急という会社はいまいち胡散臭い。
二子玉川の駅前は高島屋があったりして、単なる郊外というよりは高級住宅街風の味付けである。ともあれ、静嘉堂に向けて歩き出す。


午前中の人気のない住宅街を歩くこと30分弱、旧三菱別邸静嘉堂文庫は、取り残されたような武蔵野の雑木林の中にある。あっさりとした洋館の隣が美術館である。
日本に冠たる三菱のコレクションを収めた美術館であるから、さぞかしと思ったが、実は美術館そのものは本当にこじんまりとしたものだった。多分白鶴美術館の方が広く、香雪美術館と同じくらいだろうか。少々拍子抜けしながら、今回の目当て、耀変天目を拝見する。
敢えて此処で書くが、知ったかぶりというか通人風の男が学芸員やらその上役やらを呼びつけてケースの前でライティングの不味さについて延々と講釈していた。無論、それは確かに正論であったが、少なくとも現実問題としては鑑賞の邪魔以上の何物でもなかった。あと、どんな茶碗でも賛嘆して喋り続ける連中は、百貨店の食器売り場でも満足してお釣りが来るのではないだろうか。
ともあれ、大名物、稲葉天目である。奇妙な、実に奇妙な茶碗である。私にはこの窯変は泡のようであり、痘痕にも見え、幾つもの宇宙にも見える。いずれにしても、美しいと云うよりは抽象的な思索をうながす茶碗である、つまり、存在と無、宇宙と空虚、図と地、泡と時間、そういった存在論的な領野を表徴する、釉薬質の極小庭園という理解になる。流石に美しくない、とは云わないが、此処にあるのは茶碗の美ではない。茶碗の美はそれが寂びであれ何であれ、器形と陶質の完全なる(=疑似人格的)統合、抽象的な言い方が許されるのならば形態と質感の融合が生むEroticismである。天目の形態と耀変は、表面的には調和しているが、統合に於けるEroticismはないように思われる。
皮肉な言い方をすれば、それ故に窯変(耀変, 油滴, 玳玻)天目は中国本国には余り残っていないのかも知れない。言ってしまえば人目を惹きやすい下手物で、技術的な困難は大きいかも知れないが、東方の田舎者が大枚叩いたとしても、中国の文人の趣味には合わなかった(少なくとも、どっちでも良いようなものだった)のかも知れない。どちらが正しいという手合いの物ではないが。
あと、植木鉢のように馬鹿でかい油滴天目があって、もういい加減にしてくれという感じだった。


さて、次は井戸茶碗である。銘「越後」を名乗るものは形もすっきりとしてバランスが良く、色合いも無理せず寂びた感じでなかなか良かった。同「金池院」は丸みが強く、色もぼてっとした感じで、いかにも生臭坊主という風で足蹴にしてやりたくなる雰囲気であった。
高麗茶碗の類で、呉器茶碗というのは知らなかったが、大徳寺呉器というのは大井戸並の大きさで、かつ禅寺の椀の様に球面が強いので、独特の印象がある。特に銘「おぼろ」はふんわりと包むが如く浮かぶが如くといった雰囲気を持ちつつ、きっと立ち上がった高台から伸びる球面はしっかり締まっていて、連想で申し訳ないが、阿羅漢が最高級の豆腐に変化したような感じである。
あと、伊羅保茶碗はあったが、余り好きではなくて、魚屋とか柿の蔕とかはなかった。
青磁茶碗は竜泉窯の小振りの引き締まった感じのがあって、お茶の色と混ざるんでどうだろうと思いつつ、器としては良かった。
楽茶碗も一通りあったが、どれも今ひとつぱっとしなかった。全体的に、言ったら悪いのだが「あんた、これ本当に好きで買わはったんどすか?」と訊きたくなる。軸になる審美眼というものは、茶道具の場合必須だと思うのだが、余り感じられなかった。
乾山の春草筒茶碗は、素朴な感じで悪くなかったが。


静嘉堂は台地上にあるので、結構見晴らしがきくが、起伏のどこまでも建物が埋め尽くしているのを見て気分が悪くなり、早々に退散。そのまま二子玉川の反対側(上野毛)にある五島美術館へ、てくてくあるくこと30分。
ここも、さほど広くはなくて、同じ電鉄系の大和文華館よりも狭い位。中国陶磁の展示になっていて・・・
・・・まあまあかな。砧青磁は大振りだが色合いはしっかりしていたし。光悦茶碗「七里」が見れたらいうことはなかったのやけど。


そのまま二子玉川まで歩いて戻り、来た列車に飛び乗って再び半蔵門線で永田町へ。此処で有楽町線に乗り換え、江戸川橋で降りる。ややこしいのだが、この江戸川橋神田川に架かっている。橋を渡って目白通りを台地へ上ってゆくと、カトリック東京カテドラル聖マリア大聖堂が見えてくる。

丹下健三といえば、私にとっては現都庁舎の際の悪評や、バブルの元型(Archtype)としての東京計画1960-1986ということになって、それ以前の絶頂期は目に入らなかったのだが、ふとしたきっかけでこの恐るべき教会建築を知った。
実際、これほど自己完結した建築は見たことがない、それがモダニズムということなのだろうが。向かい側は椿山荘で周囲は学校と住宅なので、蒼天に向かって伸び上がる聖堂は或る意味この世のモノとは思われない。

中は静かだが、残響は強い。カソリック教会独特の、座っていると暗闇から吸い上げられる様な感覚は、此処にもはっきりとある。暫く瞑想する。


再び江戸川橋駅に戻り、永田町で降り、国会議事堂前まで歩く。国会議事堂の裏側、衆参両院の議員会館(ちょうど色々問題になっている処)の前を歩く。何というか、国家権力という薄気味悪い部分を引き受けることで成り立っている東京というものもご苦労様なものだと思う。
とはいえ、その権力が何処に由来しているのかということとは独立して、国会議員が権力者であることは間違いない。従って彼らがその権力に相応しい待遇を受けることに私はさほど疑問を感じないが、被選挙権者並びに選挙権者がその権力に相応しいと判断している人物については常に疑問を禁じ得ない。
国会議事堂前から千代田線で乃木坂へ。ここから国立新美術館へは直結通路である。


横山大観の大回顧展ということで、平日というのに大盛況であった。だが、はっきり言って大観は余り絵が上手くないと思う、マシになってきたのは大正の半ばに少し琳派風の絵を描いてみて、昭和の初め頃からだろう。それでも彩色画は海に因む十題と或る日の太平洋(どちらも色数が少ない)以外は色彩センスも何もあったものじゃあないと思う。
晩年の水墨は形態をしっかり捉えていてなかなか見応えがあるが、全体として見た場合、近代日本画の最高峰はやはり松園と御舟だろう。大観は苦労した先駆者ではあり、その意味では日本的な表現では巨匠なのだろうが・・・頂点ではないと思う。
或いは、日本画において優れた作品は時間の経過を要するのかも知れない。真っさらな紙と曇り無き彩色は西洋絵画では出発点でありそのまま到達点だが、日本画においてはけして到達点ではない。大観のどの作品よりも、同時に展示されていた光琳の槇楓図の方が良かったが、これは光琳の才というだけでなく、三百年の時間の経過が画面を熟成させたからだと言えないだろうか。馬鹿なことを言っているのかも知れないが、神の永遠性ではなく自然の時間性に軸を置いてきた日本の工芸美術はワインの様に時と共に静かに成熟すると思う。少なくとも芸術はそうでなくても工芸は時間に於いて在ると信じる。
長巻「生々流転」は行列が続き、誘導員が止まらずに前に進む様アナウンスしていた。その老若男女の非意志的な蠕動こそ生々流転であるなと皮肉な思いを抱いた。


その後、乃木坂の駅に戻り、そのまま二重橋まで出て東京駅まで歩き、新装大丸の地下で弁当を買って新幹線のホームに上がる。
夕焼けの背後に沈む丹沢の山が見え、その彼方にぼうっと白っぽく浮かぶ富士山が見えた。古来無数に富士山が描かれたが、結局どれも実際の富士山に遠く及ばないなと思った。大観もそうだったし、或いは光悦もそうかも知れない、浮世絵に至っては論外だ。或いは、遠く及ばないことをはっきりさせるために描いたのだろうか。至高に対する甘美な断念、そう言っても良いかも知れない。
三島を過ぎると、裾野の奥に夕焼けてなお純白の富士が君臨する。それは余りに厳然たる存在として、あらゆる表現と表徴を愚弄しつつ、捧げられたそれらを貯め込んでいる様に見えた。富士山がなければ、日本に於ける権力とその表現というものも大分変わっていたかも知れない、少なくとも江戸時代以降の変容は無かったかも知れない。そんな思いに捕らわれつつ、私は赤葡萄酒の誘う眠りへと落ちていった。