言語学と詩学と。

言語学は、言語の振る舞いの残滓を対象とするが、言語を対象としない。
言語を、というのは、言語が突如として、常に既に私に訪れ、あなたに訪れ、時としてあなたから訪れる、言葉が現に振る舞う様を、ということである。例えば最初のそれについては、現象学の方が遥かに親密に迫っている。後の二つについては、例えばブランショほど追求した言語学者がいただろうか。
言語の振る舞いの残滓は、結局の所言語の全体的・集合的構造であるが、それは権力の標本に等しい。従って、言語学は、実際には言語についての学であるよりは、権力の物理学、(Kritikの意味での)暴力批判理論群である。その点については、人類の生み出した政治学(権力の地質学と言うべきか)の精華に匹敵する。


言語が訪れる様をポイエインと呼ぶとしても、それは能動/受動の図式を折り畳んで包摂している。詩が、言語の残滓の中で取り分けポイエインに引き付けて語られるのは、構造が持つ整序の中で、言語の生成を言語の生成に併せて、言語の生成する侭に残留してゆくからであって、それゆえ詩は常に最も錯雑した単結晶である。
この様な詩のポイエインについての学が詩学であるのか。

そうではない。

詩学(ポエジー)はポイエインについての学であり、それはつまり、ポイエインの構造化表現、すなわち詩そのものに外ならない。
詩こそ詩学の隠蔽されがちな本体であり、或る言語集団の学は、その言語に於ける詩から抜け出ることはできない。