やはり
クロソウスキーは抜群に面白い。ジイド、
ブランショらフランスの作家を語る際にはやや硬さの残る
クロソウスキーも、最後に
ニーチェを語り出すと炸裂する。
ニーチェのない
クロソウスキーは窮屈な神学的悪魔論者であるか、いずれにせよ必読。
現存する中国の神話は余りに断片的で、従ってそれほど面白くはない。だが、それこそが複数の民族の交錯から生じた中国という文明を明らかにしてくれるのだという。
三皇五帝から商に至る古帝王の系譜は戦国期の斉で構築されたものだ、というのが本書の主張だが、逆にこの仮構に組み込まれなかった神話=社会は非中華として中原から消え去ってゆく。従って、中国における神話とは、歴史になれなかったものの謂である。
孔子を下層の巫祝の出身として、本来の
孔子の思想を探求する試み。学説としては受け入れられないだろうが、遂に仁について語らなかった(語りえなかった)
孔子のリアリティはおそらくはこのような仕方でしか復し得まい。
反復すること、もどくこと。それは複製ではなく、模倣でもなく、反駁でもないが、復たそれぞれでもある。もどきが芸術の始原であれば、天邪鬼こそ理性の原形態であるが、もどきと天邪鬼もまた常に重なり合っている。
剣術における、形と心(気)の問題。剣術・体術家
はえてして自己の経験を絶対化して
神秘主義に陥り易いが、甲野氏はその点極めて冷静で自他の身体経験について客観的に観察できる人である。この領域も覗き出すと余りに広大ではある。
鎌田氏は良くも悪くも文章が軽いので余り
国学者らしくないが、従来の
国学の
純化主義に抗して、神仏(神神)習合を積極的に肯定し見極めていこうとする態度は、年来の私の立場に近似している。内容は習合を理論立てる所までは行っていない(多分この人はそんなことに興味がない)ので、我こそはという人は是非。
バタイユの或る意味で代表的な作品、必読文献。でも、眩暈のする深みって、実は
バタイユにはない気がする。個人的には
クロソウスキーの方が好み。