井筒俊彦『イスラーム思想史』


イスラーム思想史 (中公文庫BIBLIO)

イスラーム思想史 (中公文庫BIBLIO)

大分前に古書店で買ったままになっていた。何度か読もうとしたのだが、何故かしらそのままになっていた。何事にも時宜というものはあるのだろう。
そういえば、後記には注目すべき事が書かれている。本書の原型は、1941年に20代の著者が書き、それに可能な限りの改訂増補を施して1975年に出た(文庫は1991年刊)、ということである。


本書はイスラームの誕生から、アヴェロエスまでの思想史を概観するのだが、イスラーム思想、特にその形而上学は、その名とは裏腹にイスラームから内発するのではなく、イスラームが取り込んだ他文化がイスラームの中で再発展しイスラームに巻き付いていく過程で発生している。シリアのキリスト教グノーシス主義ペルシャゾロアスター教、そしてインドのウパニシャッド。勿論、思想をその経緯のみで評価することはできないが、例えば仏教などとは全く違うのは確かである。
アヴィセンナイブン=スィーナー)、アヴェロエスイブン=ルシュド)と言えば、西洋思想史を囓った人なら名前だけは知っているだろうが、私は名前しか知らなかった。とはいえ、本書の限りでは彼らは畢竟新プラトン主義、グノーシスの末裔であるに過ぎない。


私が惹かれたのはやはりイスラームであることを深淵まで自覚したガザーリーである。極論してしまうと、イブン=スィーナーイブン=ルシュドには、(彼らがキリスト教世界で受容されたように)イスラームでなければならない内的必然性はない。更に言ってしまえば、この地上で人間である必要すらない。
ガザーリーは、論理と理性が適用されるべき知の領域を限定し、それ以外の、取り分け信仰の領域に理性を適用する形而上学的志向を厳しく批判した(『論考』のウィトゲンシュタインの立場に近い)。彼は言う、信仰を理性と論理で証明したとしても、それでもって人を信仰させることはできない、それで得られる信仰などというものは偽物である。信仰は内的体験によってはじめて得られるものである。
彼はヒュームと同様に因果律を否定し、コーランクルアーン)と矛盾するイスラーム哲学の諸言説についても、それらが過去の哲学者の言説を引き継いでいるからに過ぎず、コーランと無矛盾な哲学的言説が可能であることを示す。従って、ガザーリーによってはじめて、イスラームはそれ自身の思想を手に入れたと言えるのではないだろうか。


後、巻末に併せられたスーフィズムの大家バスターミーの思想をウパニシャッドとの関係から考察した小論が興味深い。「アートマン(個別自我)はブラフマン(絶対者)である」は、イスラーム的には「私はアラーである」というとんでもない言辞になる。しかしその深淵へと踏み入って尚かつ異端とされなかった偉大なるスーフィー(神秘修行者)がバスターミーである。彼の言行は大変に興味深く印象的だが、寧ろその源流となるウパニシャッドに当たってみたいと思う次第である。暫く先のことになるだろうが。


追記:スーフィズムも他の神秘主義と同様、現世否定的である。しかし真に現世を否定するならば、寧ろ現世と完全に一致しなくてはならない、無の日常を生きねばならないと考える私は、やはり何処か禅的なのだろうか。