J.デリダ『声と現象』

声と現象 (ちくま学芸文庫)

声と現象 (ちくま学芸文庫)

暖かくなってきたというのに、暫く家のあれやこれやで山に行けていない。無念であるが如何せん止むを得ないので多少本を読んでいる。
デリダは、2回で研究室に配属されて最初の演習で"De la grammatologie"を読まされて余りの意味不明さに辟易したのが初体験だった(加えて、演習の担当教官は京都学派の流れを汲むヘーゲリアンだった……恩師だから悪いことは言いたくないが)。その後何度か挑戦したが読み通したのは『シボレート』と『カフカ論―「掟の門前」をめぐって』くらい。
とはいえ、『声と現象』を読んでやはり凄い哲学者であると脱帽した。本書はオーソドックスな論文の体裁を取っているので、多分入門としては一番良いのではないだろうか。無論哲学論文のスタイルを知らなければ同じだろうが、形而上学の歴史を無視してデリダを読んでも、彼が何を言いたいのか分かり辛いと思う(これは自戒を込めて、だが)。パルメニデスからハイデガーに至る執着を知らずに

形而上学の歴史は、絶対的な<自分が語るのを−聞き−たい>ということである。この無限の絶対が、それ自身の死として立ち現われるとき、この歴史は閉じられる。差延なき声、エクリチュールなき声は、絶対的に生きていると同時に絶対的に死んでいる。
(p.229-230, 強調は引用者による)

という名言を理解でき、此処に漂うヘーゲルの気配を感じられたら、或る意味化け物だろう。


記号と共に訪れる絶対的なズレとでも言うべきもの、詩人が其処へ賭けることによって書き始めることになる跳躍、そういった辺りへの視線の遣り方を抱えて生きざるを得ない人にとってデリダの言葉は身近に感じられる。逆に言えば、記号が差異の働きとして私から私を引き剥がすことによって私を私として貴方へ向けなかったら、語ることはおろか心すらあるまい。この、日本語が「心がない」と言う際の、或いは定家の『有心』、漱石の『こころ』が表徴しているところの、「からだ」からのズレと他性/時間の被曝、そして其処から見通される私の消失点、これらの実感でもって、脱構築とか差延とかいった造語になにがしかの補充を加えることが出来るかも知れない。「こころ」は常に既に乗っ取られ引き裂かれている主観性の、逃れるための差し出しであって。言うなれば<貴方が聞くことのできる仕方で−語り−たい>ということだろう。
一方、デリダの言う「私=主体の死」という表現は、少なくともこのままでは曖昧で不正確ではないかと思う。不在は、仮にそれが永続的なものであっても、死と等価ではない。差異が発生する際の私の消失と、「からだ」の没落(Zugrundegehen)でもある死との間は、或る曲折を介することなしには接合されないので、その曲折を無視することは「からだ」の諸相(と貴方の諸相)を無視することになるのではなかろうか。逆に曲折を丁寧に素描することができれば、死を中心にして雪崩れゆく薔薇窓の様に、「からだ」の深夜で差延から離れつつ触れることができるのではないだろうか。
多分私は、何も分かっていないと云うことも分かっていないのだろう。全てとは言わないが、もう何冊か読んでみたいところである。