Audi/Poseidon/Kobe...loneliness

今日は、午前中から神戸の北部へ。神戸電鉄に乗るのは初めてだが、素晴らしくローカル線色の濃い路線だった。電化され高架駅なのに(だから?)。
さて、今日の目当てはアウディA3(旧モデル)である。空色のボディに空色のシート、3ドア、10年落ちで3万km、と、どう評価していいのか難しい(まあ、奥様用セカンドカーでシャッター付きガレージに仕舞われていたんでしょう、神戸だし)。状態としては非常に良い、内装のセンスは日本人好みではないだろうが、ルーテシアよりはずっと上である。もっとも、シートの座り心地はルーテシアがダントツであるが。あと、リアの塗装が極く一部浮きかけているのが気になる。ディーラー系列ではないから、値段は笑える位なので(ゴルフIVより安い位)、2年で乗り潰すというのもアリか。ルーテシアも捨て難いし、難しい選択である。


おまえ、国産車に興味ないのかと言われそうだけど、ないことはない。ただ、欲しい国産車は新しいものばかりで、そういうのは中古でも高いし、ある程度傷つける前提なので資産価値も見込めないとなると厳しい。少し前の国産車で欲しいとなると、マツダランティスクーペ(ご存知?)くらいだが、これはルノーアヴァンタイム並みの稀少車である(しかもATなんざまず見掛けない)。


その後、三宮に戻ってDONQ本店でクロワッサンやらベーコン&チーズのバゲットやらを買って、メリケンパークで日向ぼっこ兼お昼。偶々、海王丸が入港していた。やはり帆船は良いなあと思いつつ、海を見ながら譬え様もない孤独感に苛まれる。鹹水は暗く光を呑み込んでいて、生も死も単一の現象である連続体が私を招いていた。大気の広がりである空間は絶え間なく明晰に、お前は必要ない存在で、生に預るべきではなく、水中へ失せよと宣告する。
私と世界の間(或いは例えば私と携帯電話の間)に一つの明確な線が引かれていて、私は常に予め其処から追放されているのだ、という感触は、私をかなり深い所で定義している。私がエクリチュールに拘るのは、それ自体が一つの区分線であって、誰もが其処で予め追放されているということに於いては平等だからかも知れない。私は常に外部である、それは或る種の原罪思想かも知れないが、世界から追放されている以上、私には美の場としてしか、世界は開かれていない。美を通して世界に繋がれることは、しかし、追放をより明確にするものである。日差しは美しく、私に永劫の拒否を告げていた。そして、私には立ち去るべき場所もなかった。


私が旅や車を求めているのは、その若干の速度が、立ち去りに相当する時空のずれという幻想を与えてくれるからなのだろう、とも思った。